淋しさを癒す場所

4/07/24

暮らしのひとこま

ペンペン草(ナズナ)花言葉は I offer you my all.
 

おはようございます。

花フォトは 道端に咲いていた花。子どもの頃 この草を振ると ペンペンと音がしましたよ。だから ペンペン草。

散歩に出ると 草むらの緑が 盛り上がりをみせています。

まさに 春。命のほとばしりが そこかしこに現れていて 目にするだけでも元気をもらえます。

モリモリしているのは 草むらだけではありません。

我が庭にも雑草が生えてきて その勢いったらとんでもない。ひと雨ごとに伸びてきては なんとも生き生きとしています。

あぁ また 草取りの季節がやってきたか。

例年だったら 気が重くなっていたけれど 今季は 少々 余裕です。

というのは 「草ぐらい生えてても いいじゃん」という気もちになっているからなの。

南側の庭には ちょっとした芝生があるのだけど そこには こんな草が生えてきています。


マンネングサというのかしら。調べたけど 似ているのがいくつかあって どれだかはっきりしませんでした。

どこからか種が飛んできて芽を出し 昨年あたりから 存在感を増しています。やがて 黄色い花が咲くの。かわいい。

初めは 邪魔者扱いして抜いていたのだけど どんどん増えてきたので 降参しました。グラウンドカバー状態になるまで 放っておこう。


そう想ったら気がラクになっちゃって 他の草にも寛大になっちゃう。

あまりに見苦しい状態にまで伸びてしまうようなら せっせと抜こうと思うけど そうでないなら それぞれの草の小さな花を愛でることにしよう。「雑草という名の草はない」と言った牧野博士の心境に ちょっぴり近づいたかな!?


実は 先日 我が庭に ちょっとした変化があったんです。

かなり大きくなっていた 三本の樹を伐採してもらいました。こころを鬼にして 切り倒したのは もみじ 紅梅 花水木。

なぜ そうしたかというと もう 自分の手には負えなくなってきたから。

わたしの背をはるかに超えた樹々。

もみじや紅梅の徒長した枝を 高枝ばさみを使って切り落とす作業がしんどくなりました。特に 紅梅は 消毒をしないと毛虫がついてしまう。去年は 葉っぱの半分がなくなるまで気づかずにいたりして 愕然としたし 花水木の枯葉が お向かいの駐車スペースに飛んでいくので それも気がかりになっていました。 

老いていくにつれ 庭木の管理は ますます難しくなっていくでしょう。終活のひとつと割り切って 便利屋さんに来てもらい 伐採と枝の片づけまでお願いした次第です。

庭は ちょっとだけ殺風景な感じがしますが じきになれるでしょう。思い出の樹々は 写真に収められているので 何度でも見ることはできます。


ところで 唐突ですが

木といえば こんな詩を思い出しました。


ダイヤモンド

        寺山修司

木という字を一つ書きました

一本じゃかわいそうだから

と思ってもう一本ならべると

林という字になりました

淋しいという字をじっと見ていると

二本の木が

なぜ涙ぐんでいるのか

よくわかる

ほんとに愛しはじめたときだけ

淋しさが訪れるのです


わたしも 今 「寂しさ」ではなく 「淋しさ」を感じているのかもしれません。大好きな人と 遠く離れていることの淋しさ。

その淋しさを忘れさせてくれるのは 雑草たちでにぎやかな この庭かもしれないと思うようになりました。

庭に出て しゃがみこんで草を抜くとき ちっちゃな花を見つめるとき あるいは カメラのファインダーをのぞくとき すべての現実を忘れて その世界に集中しています。そんなひとときをもたらす場は わたしにとって 癒しの庭。

あぁ 庭があってよかったと思い始めました。

東側の庭には 苔まで生えている。


この家に暮らしている限り 花々や雑草たちとの時間も大切にしていこう。

そんなふうに想ったら 庭の草取りストレスから 解放された感じがしています。

庭もまた 生きている喜びをもたらしてくれる場。

せめて ペンペン草がはびこらない程度には手入れをしながら 春夏秋冬 季節の移ろいを伝えてくれる庭の風景を 存分にたのしんでいきたいです。 

          

 No.164

きょうも ご訪問下さって ありがとう💗


ポチっとにも 感謝しています。
小鳥たちに そっと ふれてみてね。


おり~ぶ

QooQ